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3月11日木曜日 あれから10年

3.11。この日も緊急事態宣言中のテレワーク。そんな日の午後。

あれから10年か。

 

10年前のあの地震の日を思い出す。当時はブログも書いていなかったので、記録に残しておく。

 

あの日は会社にいて、都心でも経験したことの無い揺れ。オフィスの天井板も何枚か外れてぶら下がるくらい。

揺れてる間、自分の体のことは置いておいて、ドアが開かなくなるんじゃ無いかと思って、オフィスの入り口のドアを押さえていた。今考えると無謀。

その後情報収集のため、会社のテレビを見ていると、「震度7」、「大津波警報」と知識としてはあっても実際には初めて聞く言葉に驚く。そして、津波の光景が生中継される。それを見ていると、もうテレビの前から動けない。とんでもない世界になった。

関東も石油コンビナートで火災があったり、千葉でも津波が来たりと大変なことになっていた。

電車が全部止まり再開の見込み立たずと言う情報が入って、部下に近所のコンビニに食料補給に行ってもらった。残っていた食料を仕入れてきたが、その後、第2便に行ってもらったら、もう何も無くなっていた。

JRは終日運休決定。会社の窓から下を見ると、渋滞で全く進まない外堀通りと歩道を歩く大勢の人人人。

こんな状況で歩いて帰ると余震の時にパニックになりかねない。会社に泊まるしかないか。と思っていたら、夜9時過ぎに地下鉄南北線復旧との情報が飛び込んできたので、駅に向かった。

まだ情報が知れ渡っていなかったのか、ガラガラの地下鉄に座っていくつか駅を進む。その後情報を得た人が多くなってきたのか、駒込あたりで超満員。積み残し多数。一駅進むのにすごい時間。こりゃ東川口では降りられないかと思ったが、11時過ぎに1時間半くらいかけて東川口に着く時には、もうガラガラ。東川口からの武蔵野線は運休しているし、タクシー待ちはすごい長い列。なので、走って帰る。ランナーでよかったと思いスーツに革靴でLSDペースでゆっくり帰る。さいたまは道も空いているし、タクシーはまったくいないけど、思ったよりも平和な雰囲気。深夜だけどようやく気持ちが落ち着いた。幸いなことに不思議なほど自宅はまったく被害無し。棚から物も落ちていない。

 

落ち着かない中、寝て起きると、翌日はすっきりとした晴天。余震もあるし、夜中に5km走ったので朝ランはやめておく。

いい天気だし、余震も減ってきたし、走りにも行かないし、ガソリンでも入れておくかと朝7時頃に近所のガソリンスタンドで給油。その後、昼には、もうガソリンスタンドは長蛇の列な上に売り切れ。

朝10時にスーパーに行って、余震に備えて水とか非常食をいくつか買っておく。米も買っておいた。これも追加で買い足そうと午後にもう一度行ったら、もう何も残っていない。買い占める意思は全くなかったけど、先行して買い込んでしまったのを申し訳なく思う。

その後は原発事故にビビりまくり、不安を感じながら1日を過ごす。「全電源喪失」と言うセンセーショナルな言葉は、今も鮮明に記憶に残る。

 

翌々日日曜日は、初回の板橋シティマラソンの試走10kmを計画してました。しかし、一緒に行く予定だったメンバーは自宅に被害を受けていたりして、試走は中止。テレビ見てると気分も滅入ってきて、気分転換に昼前に走りに出る。梅も咲いていて、いい香りの中、1時間ちょっと12.7km走る。ガーミンコネクトには、この時の記録も残ってました。

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その後、電力逼迫の報が飛び込んできて、仕事上、電力が止まるとたいへんなことになるので、自宅待機。幸いなことにその日は停電は無し。

 

月曜日は出勤。今だとテレワークなんだけどね。京浜東北線武蔵野線も止まっているので、やっぱり東川口まで朝から5km歩く。歩いて電車に乗った時はあっさり座れたけど、その後鳩ヶ谷に着く頃には超満員。会社の近くの駅でなんとか降りて会社に到着。出勤できたのは半分ほど。

 

その後は計画停電武蔵野線が止まって南浦和から歩いて帰ったり、放射性プルームが関東にやってきた、歩道の脇に黄色い粉が落ちているのはセシウムだと言う(それはスギ花粉だと即座に否定されてましたけど)のも衝撃的だったと思う。

 

あの時も初回の板橋シティマラソンは中止、遠征して参加しようとしていた笹川流れラソンも中止。今年と同じような中止ラッシュでした。

 

でも、この時以外の10年前にあったことはほとんど忘れているんですが、地震からしばらくの記憶は今でも鮮明。やはり心に刻まれたんでしょう。